日本を見直そう♪ 18世紀のロシアの驚異

18世紀の末頃から、シベリアからアラスカまで広大な土地を領土におさめたロシアは、酷寒の地、シベリア経営のための食糧をはじめとする生活必需品の供給元を日本に求めて、蝦夷地に出没するようになります。

 
ロシアの東方進出、侵略の手先が日本にのびてきました。
 
1792年、ロシアの使節ラクスマン根室に、続いて1804年には、レザノフが長崎に来航して通商を求めます。
 
幕府がこれを拒否すると、ロシアは樺太や択捉などに侵入し、日本の拠点を攻撃、略奪を働くようになり、一気に緊張感が高まります。
 
あの小林一茶
 
◯春風の国 あやかれ おろしや舟(ロシア)
 
◯初雷や 蝦夷の果てまで 御代の鐘
 
と詠んだほどです。
 
このとき、注目を集めた人に
 
林子平という仙台藩士がいます。
 
海の防衛が急務だと『海国兵談』で説いたのです。
 
林子平は、江戸生まれですが、兄が仙台藩に召し抱えられたため、仙台に移住。その後、歴史や地理を学び、経済や国防に強い関心を持ち、江戸に留学。「書を読むはずなれども、足跡をもって実地検分には到底およばず」と悟り、諸国を歴訪。特に、ロシア事情をさぐるため、長崎には3度も出かけています。
 
広く見聞して、国防の必要性を痛感した子平がまとめたのが、前述の『海国兵談』です。
 
そして、ロシアの南下に備えるため蝦夷地の開発を強く主張したのが、『三国通覧図説』でした。
 
ところが、子平が最初に警告を発したころ、誰もロシアが攻めてくるなどということは信じず、幕府は子平の書を人心を惑わすものとして発禁にしました。
 
その主張が認められたのは子平の没後です。
 
幕府は、ようやく子平の主張に基づき、ロシアの侵略に備え、蝦夷地の松前藩を直轄領にするとともに、近藤重蔵、間宮林蔵などを含む蝦夷地の探検、調査に派遣しました。このときに、間宮海峡が発見されています。
 
(ちなみにロシアの脅威は、ナポレオンのシベリア遠征により緩くなりました。)
 
今、日本でも少数の方々が国防の重要性を訴えています。私個人としては、やはり中国の軍拡、南シナ海をはじめとする覇権主義、そして北朝鮮のミサイル開発をみるに、こういう方々の声に耳を傾けたほうがよいのではないか?と思います。
 
文明が進んだ今、兵器の破壊力も大きくなり、
子平没後にその主張が認められたというスピード感では、気づいたときはもう手遅れになりかねません。
 
歴史に学ぶー歴史を学ぶ意義の1つだと思います。
 
次は、ちょっとつらいかもしれませんが、日本に来るまでに、世界ではどんな風に西欧諸国が侵略、征服をしたのか、ご紹介いたしますね。