戦うということについて考える

いじめ問題に取り組んでいると

・いじめられる方が悪い
・強くなれ

という方からの抵抗に「よく」あいます。
私は、原則としてこの考えには反対です。

イジメはいじめる方が悪いそう考えています。

また、「強くなれ」ということに対しても、一定の範囲で「?」です。

強くなって「何を守るのか」ということが大事だと思うのです。

今、いじめられている子は優しい子が多いので、「戦い」が苦手です。
また、自分がいじめられなくても、また誰かがいじめられてしまうというふうに考える優しい子が多いことも事実です。

さて、少し話は飛んでアインシュタインの話です。

第一次世界大戦が終わったときに、アインシュタインは「いかなる理由があっても人殺しは犯罪だ」というようなことを言っていました。

しかし、ご存知のように第一次世界大戦後、ナチスが出てきました。
彼は、ナチスが「ユダヤ人を600万人も台殺戮をする」という場面を見たわけです。

彼自身は、イギリス経由で逃れることができましたが、あの殺戮をみて、少し考えを変えました。

第二次世界大戦後、

「私は人殺しには反対だ。平和を愛する。しかし、そういう私であっても私自身を殺しに来るものと私の家族を殺しに来る者に対しては銃を持って戦う」

というように考え方を変えたのです。

実際に、理由なく大勢の人が殺されるという現実をみたときに、

「2%の人が兵役を拒否すれば、刑務所は満杯になり、国家的な暴力(戦争)はできなくなる」とまで言っていた人が

「私だって戦う。自分を殺しに来る、あるいは自分の家族を殺しに来る、さらには自分の友達を殺しに来る者に対しては、
自分も抵抗するし、立ち向かう」

というように考え方を変えました。

「観念的な平和論」から現実的な気づきがあったのだと思います。

私も平和を愛する人間です。
戦うことは好みません。

しかし、無抵抗な人を自分のもやもやする気持ちを満たすために
おもちゃのようにいじめをする人とは戦います。

そんなふうに、少し「自分を守る」「自分の友達を守る」ということを長期的な視野で考える人が増えたらいいなと思います。

おもちゃで遊ぶようにいじめをする人をほっておいて、その場を見過ごしても、
いじめ加害者にも
いじめ傍観者にも
いじめ被害者にも

いいことはないと思うのです。

またまた、ちょっと話は飛びますが・・・

日本の周りにある大国が、軍備を拡張して、侵略の野心を持って侵略の準備をしているなら、
やはり、ある程度防衛をして、相手に悪を犯させないようにすることも大切だと思います。

いじめ問題も

悪を犯させない

という観点が必要なような気がします。